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みなべ町出身の人物
内中源蔵
南部川村の梅産業の創始者
源蔵は1865(慶応元)年5月、山田村(現晩稲)に内中家の長男として生まれました。
青年時代から事業家を志し、30代で紺屋を始めましたが、 日清戦争後の経済の変化を読み、梅の将来性に賭けようと決心します。
明治34年、私財を投じて熊岡の扇山を買い取り、 4haの土地を開墾し、そこに親戚の内本徳松が発見した優良種を植えつけました。 また、これまで村外の梅商人が加工していた梅干を、自ら村内に加工場を建て、生産と加工を一手に行う経営に着手し成功をおさめました。 やがてこの梅畑経営の方法は上南部一帯に広まり、 南部川村の梅栽培が大きく飛躍する基礎となりました。 現在、この先覚者の偉業を称えて、南部梅林の入り口、小殿神社の前に頌徳碑が建てられ、 毎年2月11日に梅祭りがおこなわれています。
高田貞楠
高田梅の発見者
1885(明治18)年6月17日、高田貞楠は上南部村長の長男として生まれました。
明治35年、自分の所有する桑畑を梅畑にしようと考え、近所の人から内中梅の実生苗60本を購入して約30aの畑に植えました。 その中にひときわ豊かに実り、大粒の美しい紅のかかる優良種が一本あることを発見。
これを母樹として大切に育て、高田梅の基礎を作りました。 後に、この母樹の枝を穂木として譲り受けた小山貞一によって高田梅は受け継がれ、南高として世に知られることになりました。 現在、この樹齢百年近い南高の母樹はみなべ農協本所前に移植され、 私たちに元気な姿を見せてくれます。
小山貞一
南部川村の梅「南高」を育てたひと
小山貞一は1909(明治42)年3月8日に小山家の長男として筋に生まれました。
農業経営の将来を梅栽培に託し、優良品種の梅を探していた貞一は、 昭和6年、高田貞楠から門外不出の高田梅も穂木60本を譲り受け、苦労を重ね高田梅の育成に努力します。
昭和29年、優良母樹調査選定委員会の委員に選ばれた貞一は、仕事の単純化、機械化、技術化を3本柱とし、農園の事業化に成功。
これが南部川村の梅栽培を促進させる大きな力となり、飛躍的に発展させました。
昭和55年、小山貞一の梅栽培への貢献を称えて、和歌山県から農民賞が贈られました。
竹中勝太郎
「南高」の名付け親は教育者
1910(明治43)年生まれの竹中勝太郎は、南部川村出身で和歌山県立南部高校の教論でした。 園芸科の主任教師として教鞭をとるかたわら、梅樹の研究を続けていた竹中先生は、 地質風土に最も適合した梅の品種改良と選定に努力を傾けました。 教育者として広範な見解と研究者として蓄積された知識、 そして深い郷土愛が南部川村に適した梅の優良母樹を見つける大きな力になりました。 昭和25年、「梅優良母樹選定委員会」の委員長に就任した竹中先生は、 南部高校園芸科の生徒たちを実習指導しながら、 村内の優良な37品種を5年間にわたり粘り強く調査し、 最も優秀な品種を選定し、積極的に種苗名称登録を推し進め「南高」と命名。 全国の梅の産地を熟知していた竹中先生は、 郷土の誇る傑出した品種の名付け親ともなった人間味あふれる教育者でした。
飯塚淳一郎
1887(明治20)年10月15日、父・坂本為蔵と母・ウ免の5人の子供の末っ子として晩稲村に生まれ、 子供たちの個性を大切にする父親の深い愛情に育まれ向学心旺盛な青年に成長します。 18歳の時、南部湾に避難してきたアメリカ船の船員との通訳を試みた際、 自分の英語力のなさを痛感した淳一郎は、本場で英語を学ぶため、1906(明治39)年に渡米します。 働きながら勉強を続け、8年後には独学で南カリフォルニア大学歯科学部へ入学、 その後、コロラド州デンバー大学に転校し、 卒業後はデンバーで歯科医院を開業していましたが、1920(大正9)年に帰国。 14年ぶりの故郷に綿を飾り、年老いた父との再会を果たしました。 翌年、大阪歯科医学専門学校の教授に迎えられ、アメリカで学んだ知識を学生に教える日々を送り、 1941(昭和16)年には校長に選ばれます。1949(昭和24)年、新しい制度のもとで学校が大阪歯科大学となってからは学長となり、 その後も理事長、名誉教授を勤め、1967(昭和42)年6月23日に他界するまで大学のために尽くしました。
関本諦承上人
1860(万延1)年11月13日に関本久七の三男として生まれ、音吉と名づけられました。 子供のころから近くの農家に雇われ、農作業の日々を送っていましたが、 生家の向かいの道林寺の読経を日夜聞くうち教えを請うようになります。 やがて超世寺の三輪諦順師の懇望で弟子となり、 1873(明治6)年、14歳で剃髪し名を諦承と改め、翌年には僧籍を得て、16歳で教育職試補と大器の素質を現し始めました。 総持寺での修業をへて、1879(明治12)年、本山光明寺の宗学本校で仏教学・宗学を学んだ後、 高野山で密教、奈良で唯識華厳を修め、さらに東京では仏教学・哲学と、手から本が離れることがありませんでした。 25歳で超世寺の住職となり、檀家の了解を得て本山に赴き教義を極め1918(大正7)年、西山浄土宗総本山光明寺第69世官長に就任。 この間、和歌山県の修徳女学校・京都の西山高等女学校・南部町の紀南高等女学校の設立発起人として女子教育に尽力し、 引退後は小川政次郎によって再興された願成寺(田辺市)の住職に迎えられ、1938(昭和12)年11月6日、79歳の生涯を閉じました。
山本恵子
1924(大正13)年、伴吉・ます枝の一人娘として、西本庄瓜谷に生まれました。 父の影響で恵子は音楽の早期教育を受け、物心がつくとバイオリンを与えられ音の世界にお遊び、 7歳に暗ると田辺市の森内留三郎氏に弟子入りして本格的な練習を始めました。 当時は楽器を習う子供は少なく、恵子の大成を願う両親に励まされ、ただ一筋にバイオリンに打ち込む毎日でした。 着物は粗末なものでも絃だけはドイツ製の最高級品を使い、練習中に間違うと物差しで足を打つ父の厳しさの中、恵子の才能が生まれたのです。 8歳で県下学童音楽会で注目を浴び、小学校卒業と同時に両親とともに上京して、帝国音楽学校に入学。鈴木門下に入ります。 17歳の時、第6回の岩本真理・第7回の辻久子・第8回の江藤俊哉に続いて、第9回全国音楽コンクールで第一位の成績をとり、翌年には学校を首席で卒業しました。 1948(昭和23)年、共に松本音楽院少年部の指導をしていた渡辺幾太郎と結婚。 2人で故郷南部の地へ里帰りした帰り道に発病。 愛器を手に恩師鈴木先生のバイオリンを聞きながら25歳の若さで永遠の眠りにつきました。
小川政次郎
1887(明治20)年5月5日に稲原村(現・印南町)の笹野家で生まれました。 早稲田大学商科在学中に東本庄の小川国太郎氏の養子に迎えられ、 家業の肥料商を営んでいましたが明光自動車会社設立に参加したのをきっかけに、 日の出紡績(株)・旭セメント(株)・白浜温泉自動車(現・明光バス)などの経営に手腕を発揮し実業界に進出しました。 1927(昭和2)年、南部町に龍神自動車(株)を設立し、南部から龍神に至る道路設備に着手します。 高城から龍神までの山道は予想外の悪路が続く難工事でしたが、許すかぎりの私財を投じて道を切り開き、 ついに南部〜広井原(龍神村)間に乗合自動車(6人乗り)の定期運転を開始させました。 1929(昭和4)年に山路行トラック運送を、1937(昭和12)年には南部〜西本庄間のバス運転を開始させ、 龍神南部線の道路整備や龍神温泉の開発に大きく貢献したのもはじめ、南部梅林・千里観音の観光開発にも力をつくしました。 また。1925(大正14)年、南部町会議委員に就任、田辺市に移住した後は、紀南高等女学校の創立にも尽力しました。 1947(昭和22)年4月3日、60歳でその生涯を終えました。